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第10回 竹原崇雄先生

竹原崇雄先生 在校歴:昭和35~46年 担当教科:国語

紹介者からのコメント・昭和46年卒 嶋村彰典、清島恭二

《46年卒 竹原組 嶋村彰典》
竹原先生とのエピソードや思い出は数え切れませんが、いくつか思い出してみたいと思います。
それぞれのエピソードに一貫して流れているのは、先生の生徒に対する愛情であり、人間愛であると思います。
そして餓鬼に等しい我々を子ども扱いする事無く、大人として、人間として、漢(おとこ)として扱ってくれた事を、皆、肌で感じていたからこそ、あれ程慕われ続けたのではないでしょうか?
そして偶には、辛らつな言葉を吐かれることもありました。それは戒めるため、方向修正を狙ってのことであったのでしょう。聞き様によってはすこぶる厭味だったかも知れませんが、
『さすが国語の先生ばい!ボキャブラリーが豊富たい!』と多くの者は思ったもんでした。
ただ、竹原先生は学黌にいる時は悟られないようにしておられましたが、結構悩んでおられたのではないかと感じるときがありました。
先生との思い出がほとんど笑話ですが、笑いの後にふと、物悲しさが漂うこともありました。
「教師」として、「学者」として、「指導者」として、「父」として悩んでおられたのかな?と今でも考える時があります。そんな人間臭いとこも大好きでしたねェ~(笑)さて、本題に入ります。

永年勤続表彰というのがありました。
体育館の壇上に我等が竹原先生をはじめ数名の先生方。着々と式は進むのですが、異常に拍手が少ない。
そうです。生徒間では「竹原さんに取っとけ」「竹原先生に取って置け」と囁きあっていたのです。
竹原先生の番がきました。『わォ~~~ん』拍手が鳴り止みませんでしたよネ? あの時の竹原先生のバツの悪そうな顔・・・。
他の先生方、すみませんでしたm(__)m

夏休みに5日間ほど、バイトをしたことがありました。
当時流行っていた「ギター」が欲しくて、お小遣いを必死で貯めていたのですが、そこへ叔母がバイトをしてくれないかと頼んできたもんで『しめた!!』と飛びつきました。
で、担任には届けておいた方が良いと思い竹原先生にお話致しました。
開口一番、真顔で「貧しいのか?」『いえ、家は貧しくありませんが僕の懐は貧しいです」そんなやりとりがあって、
正直に言いました。学業に必要なものはねだれるが遊びのものは言いにくいと・・。真剣に考えて下さり許してくださいました。色々と諭され条件付で。其の大事な部分は忘れましたが(笑)
心の温かさ、ありがたさを感じたことでした。

同級生のG君。努力家で秀才なんですが、遅刻が多いのが玉に瑕。
ある日、1時限目の竹原先生の古典の授業に遅刻して入室してきました。全く悪びれもせず遠慮なく教室に入ってくる姿を見て、ちょっと懲らしめてやろうとお考えになったのでしょう。
竹原先生『G君、源氏物語を暗唱して下さい』
 G君「いづれの御時にか、女御、更衣あまたさぶらいたまひける中に、いとやんごとなき際にはあらねど、すぐれて時めきたまふありけり。はじめより・・・・・」
竹原先生『・・・・・』
先生、授業外の質問を発せられた。
『落窪物語はどんなお話ですか?』
G君「継子いじめです」
竹原先生『・・・・、席に着きなさい』
先生、説教適わず。一同、笑い。G少年は現在、超優良大企業の部長をしてます。

我等2年8組によく遊びに来てたH君。まだ竹原先生のホームルームが続いているのに自分のクラスは早く終わったからでしょう、2-8の廊下で待機しておりました。先生目ざとく見つけて、
『H君、大事な御用なんでしょ?さ、どうぞ、どうぞ』と、拒むH君を教室に引き入れ、無理やり教壇に立たせてしまった。
H君「・・・・」
嶋村「Hッ、頑張れ!!」
H君「ぬしゃなァ~」
笑い。こんな茶目っ気のある先生が皆大好きでした。H少年は現在県庁で県民のため日夜頑張ってます。

釣りの好きな連中で、先生を誘って海釣りに行ったことがありました。
釣りにも飽きて、海岸で焚き火を囲んで車座になり、いろんな話をしました。そのとき「大津山先生」の話が出ました。
「この前、大津山先生の授業でS(いつも成績1~2番だった)がした質問で困っとんなはったですよ」
『ほォー、どんな?』
「求める解は図の斜線部分というところで、Sが、図の斜線部分というからには、斜線を引きながら領域全部を塗りつぶさないといけないのでは?と質問したんです」
「僕らがしたらバカモンで終わりですばってん、勤勉・生真面目・秀才の誉れ高いSの質問ですから、大津山先生な、困っとんなはったですよ」
竹原先生『大津山さんも生真面目だけんなァ~』とニコニコされていました。あ、竹原先生は大津山先生が好きで認めておられるんだなァーと少年心に感じたもんでした。そして、黌外でお見せになるお顔にまた別の一面を発見した僕らは、何だかとても嬉しい気持ちになっておりました。

竹原先生は教え子の結婚式に招かれると必ず「雨降りお月さん」を歌われてました。

書き出したらキリがありませんね。ここら辺で止めておきます。

《46年卒 清嶋恭二》
僕が体験したエピソードです。もう20年ぐらい前だったでしょうか。46会で同窓会をやることになり、その中のアトラクションに模擬授業を計画して、竹原先生に先生をお願いしました。会場に着いた先生に突然お願いしたものですから、「俺は出来ん」とか言われたのですが、無理矢理してもらいました。
源氏物語のプリント(だったと思います。)を用意していたので、それをみんなに渡して模擬授業をはじめてもらいました。僕が計画したものですから、すぐに、指名されて物語の文を読みなさい。だったか、聞かせなさい、だったと思います。が、僕も全然予想もしてなかったものですから、しどろもどろで答えていると、それは、朗読では、ない。雑音だ。とか言われて、そのあと、先生がすらすらと読み聞かされました。
その当時は、女子大の教授になっておられて、久しぶりに、そういう授業をされたのでしたが、さすがにすごい先生だ、と思ったことを覚えています。
なにか、取りとめのない話になり紹介コメントにならなかったかもしれませんが、エピソードでした。竹原先生がこのコメントを見られたら、添削されそうです。

竹原崇雄先生からのコメント

在職当時の竹原先生

 私は「名物」ではない。「名物」たるには済済黌での修行が足りなかった。
赴任したのは昭和35年(黄壁城改築)、25歳であった。何も弁えぬ若造が他の先生方と同様な資格で生徒たちの前に立たねばならぬことはそれだけで十分な緊張を強いられた。一夜漬けの予習で何でも知っている演技をしなければならなかった。新米教員は先生方の授業を見て学んだ。生徒への質問が後ろで参観している教員の私に答えられないときもあって冷や汗が出た。丹念に文章の意味を探る読解力は生徒への授業の中で培われた。先生方の生徒を叱責する激しい情熱にも感動した。職員室に正座してうな垂れる生徒、真っ赤な顔で激怒する先生。予習をして来なかったというだけで、こんなにも両者の関係は燃え上がるものであったのか、初めて接する、学校という場でのそれまで想像もしていなかった先生と生徒との熱い関係であった。大変なところに来たと思った。数年経つうちにそれは済済黌的なものとしてその風土にも溶け込んでしまったが、情熱をそこまで昂めることはできなかった。修学旅行の引率の時、生徒の一人が坂本九の家を見に行って門限に遅れた。ぎこちない叱責を往復ビンタで試みたものの付け焼刃の新米の腕の効果はさしたるものではなかった。叱るということは心から迸るものが自然と形を成したものでなければならない。授業は真似ることによって進歩するが、叱ることには原初的な情熱が基盤を成していた。情熱を露わにするにはまだ経験が不足していた。修学旅行のバスの中で歌っていた「高校三年生」は今でもそれを聞くとほろ苦い雰囲気が醸される。
 担任のクラスを持って初めて一人前の教員となる。担任の生徒は可愛く、身近に接する日常は楽しかった。それだけにいろいろと悩ませられる事も多かった。授業を無視していい成績をとる生徒、単位を落とすことを屁とも思っていない猛者、検便を分け合って出す臭い友情、憂鬱な日も多かった。後で話してくれたことだが、運動場の真ん中に腹ばいになって小さな穴を掘りその中に煙草の煙を吹き込んでは砂をかけて「食後の一服」を楽しんでいた者もいたという。
 1学年11学級500余名の個性の集団に対してそれを一つの視点で捉えようとするのが誤っていたのかもしれない。一つの理念を据えて、それを多様に変容させながら浸透させていかなければならないところ、新米教員にはとうてい無理であった。授業と生徒指導に疲れると夜は下通りに飲みに行った。酒場の女たちは優しかった。「たそがれ酒場」で「緑の地平線」を歌った。室園の家まで歩いて帰った。酔った頭で現代文の予習をした。
 昭和45年11月25日正午、三島由紀夫は割腹自決を遂げた。担任の生徒に話したがさほどの衝撃はなかったようである。それ以来三島の文学に興味を持った。16歳の三島に大きな影響を与えたとされる蓮田善明は中学済済黌を大正12年に卒業している。善明は在学中、神風連の志士石原運四郎の遺子石原醜男(しこお・醜とは頑強の意 大国主命の別称)先生の謦咳に接している。三島の最後の作品『豊饒の海』第二巻『奔馬』の主人公「飯沼勲」は神風連の志士の精神を継承し昭和の神風連を企図し自決して果てる。三島由紀夫の精神には蓮田善明を介して済済黌の影が揺曳しているような気がしてならない。
 私の教員生活の原点となる済済黌を46年に去った。11年の青春の日々であった。生徒は3年で済済黌的な独特な人格を持つ。私は11年でもそうなり得なかった。そうなっていたら今頃は0?名物0?と呼ばれて迷惑していたに違いない。迷惑どころか破滅していたかもしれない。今でも昔と変わりなく「普通」に日々を送っている。変わったところといえば心は青春のまま肉体が老衰したことぐらいだろう。   済済黌  ありがとう。

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