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第6回 三池泰弘先生

三池泰弘先生 在校歴:昭和48年~昭和61年 担当教科:社会

紹介者からのコメント・昭和58年卒 渡辺裕倫

 「貫太郎」。歴代のボート部員の中での、先生を呼ぶ隠語です。
その語源は、若い人には馴染みがあまりないかもしれませんが、テレビドラマの「寺内貫太郎一家」の主人公と三池先生の風貌や豪快さ、親しみやすさのイメージが重なるから・・・、とみんな勝手に考えている・・と思います。
 伝統ある濟々黌ボート部の監督としての先生は、部員の自主性を尊重し、精一杯の練習ができれば、「勝ち」にはこだわらず「勝てるなら勝とう。」、「高校のボート部では、何よりボートの楽しさを知って欲しい。」がモットー。その言葉の中には、「永くボートと関わってほしい。」、「ボートをとおして色んなことを学んで欲しい。」というメッセージが含まれていたのではないかと思います。
 当時、生徒指導教諭という学校での多忙な役目からか、練習はほとんどキャプテンを中心とした生徒の自主性に任せられていました。
 黌内の華やかなクラブと違い、人知れず、放課後の掃除をさぼっては、自転車や原付バイクに乗り、黒髪から江津湖へ移動。自分たちで考えた乗艇練習や陸上トレーニングなどを、暗くなるまで、時には艇の先に懐中電灯をつけながら練習し、家に帰ったら風呂に入り寝るだけ。学校の授業中はほとんど寝ていたような気がします。3年間自宅で勉強した記憶がなく、”ST”の試験当日、「何もやってない!」と、冷や汗をかいて飛び起きる夢に、いまだにうなされています。
 同じ江津湖では、熊高や商大付属高校(現:学園大附属高校)が練習しており、当時から全国レベルにあった「商大付属高校に勝つ」ことが最大の目標でありましたが、彼らの練習には常に監督やコーチが付き添い、叱咤や激励の下で激しい練習を行う彼らの傍らで、彼らを羨ましいと思う反面、自分たちで話し合いながら試行錯誤の練習を行う中で、「自分たちでやり遂げる楽しさ」を学びました。いまのように、艇が余る状態にはなく、2つしかない艇の修理に大きな時間を裂き、和気藹々と船を作り上げる中で「ここは、造船部?」と思ったこともありました。
 結局3年間、一度も商大付属高校には勝つことができませんでしたが、2年の新人戦では、0.1秒差まで迫り、3年の百周年記念レガッタ準決勝では、商付の兄貴分である商大(現:熊本学園大学)に完勝し、その他、熊大、熊本工業大学(現:崇城大学)など大学勢が出場する大会で商付と高校生同士の決勝を戦えたことは、今でも「やればできる」という、大きな自信に繋がっています。こうした3年間のボート部生活は、先生の標榜する「ボートの楽しさ」を知るには十分の時間でしたし、かけがえのない親友を得ることもできました。
 事実、先輩の多くも「ボートの楽しさ」を大いに体感したらしく、大学のボート部で活躍される方も多く、大学の九州大会で先輩と艇を並べることが楽しみでもありました。
こうした、我々の礎の元に、その後の濟々黌ボート部の全国制覇・繁栄の歴史がある!と、先輩達は勝手に考えています。
 さて、自分たちの話が長くなってしまいましたが、・・・
 生徒指導教官としての三池先生は、特に一部の生徒達の間では、非常に厳しいイメージがあったと思いますが、ボート部での先生は「いい親父」。
 夏合宿などたまに練習に顔を出された時はとてもうれしかったですし、九州大会の遠征などでは、色んな話も聞かせて頂きました。
 その中で、とても印象深かったのは、先生の退職後の話。
「退職後は好きなことをやって過ごす。」というのが口癖で、「赤いスポーツカーに乗る」、「カヌーで全国の川を下る」、「外国で放浪の旅をする」等々しかし、現在の先生の話を聞くと、さすがに「赤いスポーツカー」の話は聞きませんが、ヨットにカヌー、山下清ばりの放浪記、自治会活動などなど、有言実行、いやいや、当時おっしゃっておられたことを遙かに超えるような行動をされており、そのバイタリティーには、ただただ感服するばかりです。体のこともあり、少しお酒も控えられているようですが、また近いうちみんなで集まりますので、私が天草にいる間にでも、おいしい魚でご一緒願います。
 今後も益々のご活躍をお祈りするとともに、楽しい土産話を聞かせてください。

三池泰弘先生からのコメント

在職当時の三池先生

 濟々黌の13年間は「楽しかった!!」の1語。定時制に1年、70歳の年配者や准看護士で正看を目指す人・自衛隊で高卒の資格目標等で通学する人から多くの事を学びました。昼に移って12年、多くの人(生徒・同僚)に出会い楽しい毎日を過ごし充実した月日を送りました。主観的には、「自立のための自律」を目標に生徒指導に励んだつもりですが、どう受け止めてもらえたのか?勿論、学校は「社会道徳を教える」役目を社会から託されていますから、厳しく指導するのは当然ですが、卒業して、「高校生活は楽しかった」と思い出して貰えるように説得にも力をいれたつもりですが、・・。校務分掌の都合上担任の回数が少なかったのは今でも残念な思いです。

 祖父(三池辰雄)が戦時中教諭として、叔父(三池延昌)がその在職中に卒業していた事もあり、旭志村から濟々黌にあこがれて入学し面白い生活をおくりました。幸運にも母校に勤務でき在職中に息子も共に学校生活を送り0?息子達に、校門外で生徒部の方針に対する抗議ビラをまかれ「親子喧嘩は家庭でしてくれ」と職員室で冷やかされたのも思い出のひとつです。濟々黌の「正史」には載らないであろう話を2つ記録しておきます。

(1) ボート部
 監督になってすぐ直面したのが艇庫の問題です。当時河川改修で、間借りしていた熊大の艇庫は移転補償で新築されるものの、熊大当局には無断で、熊大ボート部の好意で艇を格納させてもらっていた濟々黌と熊高は行き場がなくなってしまいました。江津湖湖畔に借用地を確保するための熊本市公園課への陳情は、最終的には漕艇協会長の貴田教授の同伴で星子市長と面談が出来、快諾していただきました。艇庫建設は濟々黌単独を目標に努力しましたが壁が厚すぎて「県立高校艇庫」に目標を変え、熊高と共同で運動し両校の卒業生諸君の尽力や室原漕艇協会副会長の県首脳部への働きかけ、「一瀬校長」の教育委員会への運動等多くの方々のご努力で今の艇庫が完成しました。完成祝賀会での校長の挨拶、その時の酒の美味さは今でも忘れません。授業時間外の外出や私の動きを放任していただいた管理職の度量の広さにも感謝しています。
 部員達は勿論自主的によく練習してくれたインターハイ、九州大会への出場もさることながら乏しい部費を補うため全員で年末のバイト代を提供してくれたこともありました。艇庫の完成後、「競技力」の向上(簡単にいえば優勝できる力)を看板に熊高との定期戦(3月最終日曜)を始めました。職員会議では「熊本のエリート高と目される二高の定期戦は生徒のエリート意識を増進されるから反対」の意見もありましたがなんとか承認を得ました。私のもう一つの狙いは資金獲得で、両校で交互にプログラムを作り、広告費を稼ぐことでした。部員に他校並のオール(カーボン製)を買ってやりたい、自分達で「耐水ベニア」や「ガラス繊維」で修理し凸凹の艇で試合している部員に新艇を買ってやりたいためでした。同期の清田君の力添えもあり、同窓の自営業者から多くの広告を頂きました。第1回はRKKテレビの録画中継放送や日本一早いレガッタというのでNHK全国ニュースでも放映され東京からも反応がありました。開催に労力・財政の面で奮闘してくれたのボート部の卒業生(済水会)と共に、これで新入部員も増えるだろうと期待したのですが・・・。

(2)「君が代」の件
 「君が代」「日の丸」の扱いは当時大きな問題で特に本校はマスコミの注目のまとでもありました。3年担任だった私は、卒業式の主役であり、たった1度の卒業式である生徒の意見も聞くべきだと、クラスで「君達の意見を聞きたい」と意見を求めました。それから、3日後、前述の「清田君」が10時ごろ、職員室に「話がある」と訪ねてきたので廊下に出てみると30数名の人がいました。会議室に移動しての話は「三池、なして君が代を歌わんとや」という詰問で、どんな連絡網で集まったか今でも私には不明ですが、平日によくもこれだけの人が集まったものと感服しました。「君が代」是非の論争が続き、昼食時に清田君が「三池に勝つためにカツ丼を食おう、食うものは」と数を数え私にも「お前も食うや」と言ったのには笑ってしまいました。図書館に移り論議は放課後まで続きましたが生徒達が入館し始めたので打ち切り、解散。現在、いわゆる「国旗・国歌」法が成立して学校行事での論議はなくなりましたが、私は、今も、「国民主権」と「君が代」はなじまないと思っています。なお、同窓の皆さんがレガッタの広告で助力してくれたのは、この「事件」の後の時点です。
 その他、連名の血判書を提出された事、対応に苦労した文化祭・体育祭の凄いエネルギー、次第に面白くなった卒業式等々、いっぱい思い出はありますが・・・・。
 現在の私は、「晴耕雨読」が中心で、ヨットのクルージング・菊池川水系での釣り・貧乏旅行を楽しんでいます。24時間自分のものというのは「快感」ですね!!

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