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第7回 興梠聖二先生

興梠聖二先生 在校歴:昭和63年~平成13年 担当教科:体育

紹介者からのコメント・平成4年卒 森長浩

 興梠先生がやって来る。肩を回しながら目をひんむいてこっちに向かって来る。怒られるのかと思って身構えようとすると、一瞬ゲンコツのふりをして、すっと通り過ぎていく。振り返ると、にやっと笑っている。どちらかといえば、いじめっ子である。

 私の高校生活は先生と過ごした時間が多かった。私が高校1、2年の時は野球部の部長、3年の時は監督を務められた。私は3年間野球部の部員であり、それだけでなく2年の時は担任までしていただき、先生と顔を合わせない時はなかった(逃げ場が無かった)。HR、体育の授業、放課後の練習、その他体育教官室への呼び出し等、学生時代の貴重な時間を先生と共に過ごした(主に怒られた)ことは、今思い出しても泣けてくる。
先生は生活態度に関してはかなり厳しい方だった。朝の課外をさぼってはゲンコツをもらっていたのを覚えている。特にさぼっていないときもゲンコツをもらったような気もする。しかし、真面目な生徒の事は一生懸命に誉めていた。それはおそらく先生自身が真面目な人だからなのだろう。野球についてもそのスタンスで指導されていた。成績が良くても野球が上手くても(私は下手だったが)、いいかげんな者には厳しく、成績が悪くても野球が下手でも、真面目な者はしっかり誉める、そんなモラルが先生の中にはあったように思う。
 しかし、そんな立派な教育者のイメージとは裏腹の伝説も残されている。先生はS48卒で野球部のOBだが、私は、同級生の方やその他の方々から先生が現役時代、「試合でミスをした同級生にグラブを磨かせていた」「試合中にエラーした仲間に後ろから本気で飛び蹴りしていた」「いじめられた」といった話を聞かされ、やっぱり、もとい、びっくりしたことがある。それではまるでいじめっ子である。今この紹介文を読んでいる方も、やっぱり、いや、びっくりされただろう。しかしたとえそれが事実だったとしても、それは、類まれな才能があり、且つ愛嬌があったから許された行為だったのだと私は理解したい。実際、先生があと10センチ背が高かったらプロ野球選手になっていた、という声は多いし、私もそう思う。私が野球部に入部した頃も、先生は練習でマウンドに立たれたり、実際にグラブを嵌めて守備の指導をされたりすることがあった。その時30代半ばを超えていたはずだが、はっきり言って現役の選手より上手かった。守備での身のこなしやボールに向かう姿勢、バッティングを見ていても、人間には努力だけではどうにもならないものがあると感じたものだ。ノックの腕も相当なもので、ボールを全力で追いかけて、捕れそうで絶対に捕れない所にピンポイントで打てる方で、全国でも指折りの上手さだったと思う。そしてもちろん、ノックの後疲れ切り打ちひしがれている選手(私)に、下手糞だなあ、といわんばかりに首をかしげて見せ、精神的に追い打ちをかけることも忘れない方だった。
 そんな先生も、90年に夏の甲子園出場を果たした時(当時は部長)は泣いておられた。余りの嬉しさに、日頃の恨みも忘れてベンチで先生と抱き合ったのを覚えている。そしてその3年後に早々と自らが監督として甲子園出場を果たしたのは、プレイヤーとしてだけでなく、指導者としても輝いていることの証だろう(それ以前にも天草工業、玉名工業の監督として、チームを県下の強豪に育てた実績もある)。現在先生は阿蘇高校の監督を務められている。おそらく強いチームを育てられることだろう。また先生のノックを見たい。
 ただ、先生も、もちろん様々な苦労や苦悩を重ねてそのような実績を積み上げられたのだが、それよりもなぜか、そういう星のもとに生まれた人なのだ、と思ってしまう(私は特にそうだ)。そして先生のことを教育者としてよりは1人の強烈な個性として見てしまう。先生のキャラクターや存在自体が教師という肩書きを凌駕しているようにも思える(大変に失礼なことかもしれないが)。つまり「名物先生」というよりは本質は「伝説の人」に近いのだ。
最後に、紹介文中のエピソードの中には、かなり苦しいフォローしかできないものもありましたが、あくまで人から聞いた話ですので、事実確認したい方は関係者に連絡を取ってみてください。もっとすごい話が聞けるかもしれません。ただ、私の一番の心配は、ご本人がこの紹介文を読まれることです。今書いていても後ろに誰か立っている気がします。ぐりぐりの目で見られている気がします。言い忘れてましたがこれだけは言っておきます、私は先生のことが大好きです。

興梠聖二先生からのコメント

在職当時の興梠先生

 昭和63年4月に濟々黌に赴任。当時の笠美雄校長先生(昭和26年卒)に、本校では「1年目から異動の対象です。」と言われ、母黌に帰ってこられた喜びがいっぺんに吹っ飛び、緊張し責任を感じたのを覚えております。それから平成13年3月までの13年間いろいろな思い出があります。

<平成2年 夏の甲子園大会出場>
 末次元監督(昭和34年卒)のもと部長として夏の大会県予選にのぞみました。決勝の相手は熊本工業。最後のバッターがキャッチャーフライを打ち上げたとき、心臓が止まりそうになったのを覚えています。キャッチャーの池田君(現濟々黌野球部監督 平成3年卒)が後で、そのフライのボールが二重に見えたと言っていましたが、わかる気がします。
<平成6年 夏の甲子園大会出場>
 平成2年の出場を最後に、末次監督が勇退され、その後を継いで監督就任。野球部に関わってきたが、その間の成績は悲惨でした。平成3年公式戦1勝4敗。平成4年にいたっては1回戦コールド負け。選手に大変申し訳なく、くびを覚悟しました。その後、なるようにしかならないという開き直りで、平成5年の春の大会で初優勝。そして平成6年には、夏の県大会で優勝し、甲子園出場と夢が実現した年でした。
<平成12年 野球部創部100年>
 1900年(明治33年)に創部した本黌野球部の記念すべき年。しかし、秋の大会、春の大会と結果が出ず、記念式典、記念パーティでは針のむしろでした。夏は、シード校2校を破るなど選手は頑張りましたが、準決勝で九州学院に敗退。濟々黌での監督生活も終わりました。
<7年間の担任生活>
 13年の在任中、3年生の担任2度を含み7年間担任をさせてもらいました。さすが濟々たる多士、大変思い出多い生徒たちでした。
(1)学校の備品のバーベルを自分の下宿に持って帰り、黙々と筋力トレーニングに励んでいた生徒。
(2)生徒会の立候補の演説会で、「この濟々黌をぶっつぶしてやる」といった生徒。
(3)その生徒に対して、壇上に上り「ぬしゃ、なんばいいよっとや」とせまった生徒。
(4)運動会での、昼休みのフォークダンスの彼女探しがいやで(強制的に探して踊らなくてはならない部の部員)当日、なぜだかわからないが、自転車で荒尾まで行った生徒。

 他にも、いろんな忘れられない生徒がいました。しかし、濟々黌は、いろんなことを許してくれる雰囲気のある学校です。いつまでも濟々たる多士が活躍できる学校であって欲しいと思います。なくなられたある先生が「濟々黌の伝統が崩れたら元に戻すのにまた100年かかる」と言われたそうです。心しなければと思う今日この頃です。

 平成13年4月、阿蘇高校に転勤し4年目を迎えます。野球部の監督に復帰し2年目。まだまだのチームですが「いつかは」という気持ちで頑張っています。
熊本の自宅から1時間をかけての通勤。自宅から学校まで、ゴルフ場が6ヵ所。しかし通勤時間にはまだオープンしておらず、帰宅時間には閉まっているので、趣味のゴルフも随分やっていません。しかし、今年50歳ですので無理せず、体に気をつけて頑張りたいと思っています。

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