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第4回 岡部末松先生

岡部末松先生
在校歴:昭和33年~昭和55年(教諭) 昭和59年~昭和61年(教頭) 担当教科:数学

紹介者からのコメント・昭和39卒 山川 烈

 時は昭和37年、私が濟々黌2年生の時である。数学は嫌いではなかったが、試験となるとどうしても点数が芳しくなかった。相談した担任の一瀬先生にご紹介いただいたのが数学担当の岡部先生、濟々黌のすぐ隣に位置するご自宅に毎週1回通った。3~4人の同級生が一緒に指導をうけることになった。
 雨の日も風の日も、また灼熱の夏の陽射しの中も、自転車をこいで、一心不乱に数学の勉強に通った・・・といいたいが、内心は、他の友人達が休みならば自分も休もうという下心がいつもあったことを否めない。予習をしていないときは、ことさらにその感が強かった。
 勉強場所は、玄関を上がった突き当たりの3畳の和室。この部屋で、学校のある日は夜間の勉強、春・夏・冬の休暇中は昼間、小さなコタツ机に座って勉強をした。冬の夜、たまに早く到着すると、割烹着を着た華奢な奥様が、細い白魚のような指で石油ストーブのダイヤルを回しながら炎を調節なさる姿が今でも目に焼きついている。点火時に、網の目からもれて燃え上がる炎のボッ、ボッ、ボボボボッという、やわらかい音を聞きながら他の友人達の到着を待った。ふと、将来嫁さんをもらうときは、岡部先生の奥さんのような女性を迎えたいと思った。
 全員が揃ったころ、岡部先生が部屋に入っていらっしゃる。先生はおもむろに、定期試験等で残った試験問題用紙の束を机の上におき、その右側にパイロットのインクビン、手にはごつい形の万年筆、万年筆とは、長期にわたって、インクつぼを使わずに字がかけるから万年筆という。しかし、岡部先生は、万年筆をインクビンにつけてから書き始められる。万年筆が壊れているからなのか、あるいは書きなぐっている間にインクが出てこなくなるからなのか、その理由を聞くゆとりすら自分にはなかった。気がついたら、いつの間にか、自分も自宅で勉強するときには、藁半紙にごつい万年筆とインクビンを使うようになっていた。そうすることによって、なんとなく考え方が整理できて0?問題がよく解けたのである。後年、私は試験を受けるときにも万年筆を使うようになった。一旦書いた以上、書き直しがきかないという緊張感から、頭の回転が速くなるのである。論理立てもやりやすい。
 3畳の間で勉強を始めて小一時間もすれば、休憩の時間。襖が開いて、4人分の紅茶を持った奥様の姿が見えた。このときは、緊張感が一気にほぐれる。
 岡部先生のお宅で個別授業を受け始めてから、数学の成績が次第によくなってきた。2年後の卒業のころには、試験問題を読んでいくうちに、解法の方針が自然に見えてきて、問題を読み終わった時点で答案の構想がほとんど出来上がっていることも少なくなかった。それでも、大学入試は数学1科目ではどうしようもなく、現役受験の熊本大学医学部受験は失敗に終わった。私は、その後、他の多くの同僚と一緒に、あの有名な壷渓塾に1年間通った。

 1年の浪人生活の末、やはり熊本大学医学部と滑り止めに九州工業大学電子工学科を受験した。結果は、熊本大学不合格、九州工業大学合格。負けるはずのない試合に負けたときの後味の悪さ。2浪して熊本大学医学部を何としてでも突破したい。そのことを岡部先生にお話したら、先生曰く、「山川は、大体、医者に向かん性格だけん、2浪はせんほうがよか。折角、通ったんだけん、九州工業大学に入った方がよか。そん代わり、大学院の博士課程まで行って、博士号ばとれ。」その説得が長時間にわたったのは言うまでもない。多くの事例を交えて、要するに、私がそそっかしくて医療業務には不適であるということなのである。
先生の忠告を受け入れて、九州工業大学電子工学科に入学し、大学生活が始まった。実際に授業が始まってみると、元来オーディオやハムに興味を持ち、実際に物づくりもやっていた私は、全く抵抗を感じなかった。
 おかげで、その分野に身を投じて、電子工学の分野で博士号を取得し、脳情報工学の分野で大学教官になり、今日に至っている。現在、私の研究室には、大学院生だけで約30人いるが、彼らと実験をやっている時が一番楽しい。徹夜も全く苦にならない。大学教官になって、つくづくよかったと今は思っている。「人生万事塞翁が馬」というが、あの時熊本大学医学部に不合格になったことが、岡部先生の忠告で、大きな転回を見せたことは厳然たる事実である。

 両親に縁の薄かった私は、岡部先生を単なる担任教官としてではなく、もっと身近な人として接していたようである。特に、人生における重大な意思決定をしなければならないここ一番という時や、自分の研究室の学生や卒業生と接する時、自分と岡部先生の姿が重なる気がする。私は濟々黌を卒業した後、それまでとは違った目的で、頻繁に先生のお宅にお邪魔した。というよりは、入り浸っていたという方が正解かもしれない。それも、数人のクラスメートと一緒に、その状況は、40年経った今もほとんど変わっていない。新地団地の先生のお宅から歩いて10分のところに私も家を建てたのは25年前、そこで私の子供たちも育った。家庭を持ってもなお、家族同士のお付き合い、お付き合いというより、私の家内は岡部先生や奥様から娘のように、また私の息子達も孫のように可愛がっていただいた。このような師弟関係は極めて稀だと言った知人がいた。

 私は現在、自宅を飯塚市に構え、若松の北九州学術研究都市にある大学に、車で往復2時間かけて通勤している。そんな離れた大学の私の研究室の学生達は、毎年2~3回私の自宅で飲み会をするのを楽しみにしているらしい。酒は大勢で飲むのが美味いに決まっている。こんな考えも、岡部先生と接しているうちに、自然に身についたものかもしれない。事あるごとに、岡部先生からは教員としての冥利について、話を聞かされてきた。それが、私が大学教官になる原点だったかもしれない。58歳になった今、大学教官としての幸せをしみじみと味わっている。そして岡部先生から私が受けたような影響を、自分の学生達に与える責任の重さも痛感している。

紹介者からのコメント・昭和52卒 鮫島伸宏

岡部先生は、3年生の時の担任であった。当時、数?というのがあって熱心に数学を教えてもらっていたのだが、私は成績が悪くいつも怒られていた。そのためか、先生に対する学生の時のイメージはよくない。
しかし、15年ほど前、偶然先生とバスに乗り合わせたことがある。たまたま隣の席に座り、先生に「鮫島、何しとるか。」と聞かれ、「今大学病院に勤めています。」と答えた。「そうか。医者になったか。」(この劣等生が!)と目を細められた。降車するときに「世話になるかもしれんな。」と言われた先生の姿が、学生のころより少し小さく見えたことを覚えている。

岡部末松先生からのコメント

在職当時の岡部先生

7時起床。7時10分から30分散歩。10時頃から園芸作業や読書。読書は好きな本の好きな文章を読んでいます。
最近読んだ本。「吉田兼好と徒然草」
兼好法師は、足利尊氏の家来の高師直(暴虐非道の武士)の恋文を代筆した。武士ぎらいのはずの兼好法師が、師直の幇間のようなことをしていた。節操のない行動である。しかし師直のような男と付き合えたということは、兼好法師の意外な懐の深さを現わしてはいないだろうか。(高橋直樹)
歴史街道12月号の文章は印象に残る文章でした。
夏目漱石全集は第四巻 草枕 二百十日 野分 をゆっくりと再再読しています。読む度に新しい発見があります。

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